大学1年の冬、総合病院の薄暗く長い廊下で、「あと1年」と宣告された父の命。それより3年長く生きて、父は死んだ。
24歳の春、私は父の相続登記という体験をする。
平凡なサラリーマン人生を終えた父は、自宅とわずかな預金、そして母と私を残した。「母と2人でこれから強く生きていかなければ。」―そう決意したことを昨日のように覚えている。
当時、司法試験受験生で家庭教師のアルバイトをしていた私は、相続登記について多少の知識はもっていた。しかし、母が「お父さんが死んだのだから早く登記しなければ」と焦っていたため、プロの司法書士に依頼することにした。
当時住んでいた埼玉の地方都市には、数名の司法書士しかおらず、どう決めたのか母はその中の一司法書士事務所を訪ね非常に憤って帰ってきた。
「いろいろとわからないことばかりだから、相談にのってもらえると思って行ったのに立ち話で帰されたのよ」と母。
「こんな田舎の小さい土地はたいした価値はないから相続登記しなくていい」「まして、建物なんかいずれはタダ同然になるのだから」「娘は結婚して出ていけば、他人だから相続持分をやる必要ないですよ」とスタッフに言われたという。しかし母は、「お父さんが建ててくれた大切な自宅だから、ちゃんと相続登記をしたい」と押し切ってきたという。
そして作成してもらった遺産分割協議書。不動産登記簿謄本の見方を少ししか理解しない私にもかなりお粗末に見えるほど、その遺産分割協議書は入力ミスが多かった。不動産の表示は5,6箇所違っていたし、被相続人の名前(つまり私の父の名前)も入力ミスがされ、二重線で消され、その上に正しい名前が手書きされていたような記憶がある。
よく解らぬまま、母に言われたとおりその遺産分割協議書に署名し実印を押した。
その何日か後、建物は母と私の1/2ずつの共有、土地は母単独名義の登記簿謄本が出来上がってきた。
母は、その登記簿謄本と権利証を大切に、父の仏壇の下の金庫にしまった。
それから2年後、合格の見通しのたたなかった司法試験をあきらめ司法書士試験に転向した時、私が決意した事は、あんな司法書士になるまい・・・という事。それほど悪気のない一言だったかもしれない。残された母一人子一人の家族のために、無駄なお金は使わない方がよいとのアドバイスだったのかもしれない。しかし、母一人子一人となった私には……。
あれから数年。相続登記を私の事務所に依頼してくださるお客様への私の思いは強い。24歳で母一人子一人となった心細さ。父という絶対的な強く頼れる人を失った喪失感(私はパパっ子でした)。
司法書士になって18年。天命をまっとうした人を見送れて幸せな相続人。携帯電話のメールで遺書を送って数日後に自殺した夫をもつ妻。信じて疑わなかった夫の死後、夫には認知した息子がいることを初めて知った妻。死んでから母宛の支払い催促状のハガキを受け取って、母は多額の借金を残していた事を知った息子。
可哀想とか、不幸とか、そんな陳腐な言葉では表現できない場面に関わってきた。“親を大切にしなければ”と頭では解っていても、目の前に愚痴ばかりこぼし、小言をいってくる老親がいると優しく出来ない私たち。配偶者にも、面と向かっては照れくさくて感謝の言葉を言えない私たち人間。
全くの後悔の念なく、相続をむかえられる人はいないのではないでしょうか。ですので、せめて相続の場面で私のできることは、介護などで一生懸命尽くされてお疲れになっている相続人、姑や舅の介護を実の親に劣らぬほどしたにも関わらず、誰からも認めてもらえず虚無感におそわれているお嫁さん、他の相続人には決して語れないお話を聞いてさしあげ、愚痴もきいてさしあげ、一緒に悔し涙を流し、その人のやってきたことを認めてあげて、一緒に笑いとばしてあげて、最後は法律のプロとしての民法の知識を提供する〜そういう思いを込めて今日もお客様をおむかえしています。